「恩に報いる」

1.戦後80年

 今年戦後80年を迎えて、以前、戦争を直接体験された方々のお話を伺ったことを思い出しました。空襲により橫浜の中心部は焼け野原になったこと、自分の目の前で多くの人が亡くなったこと。また小学生の自分が箱根からの疎開から戻ると、自分の家が跡形もなくなっていたこと。でもそこで笑顔で大きく手を振っている母親や兄弟を見つけて、涙が止まらなかったこと。焼け跡で、近所で助け合いながら雨露をしのげる小屋を建てたこと。

 また赤紙(召集令状)で召集されて戦地に赴く前、営舎で理不尽に上官に殴られて、殴られて、「こんな思いをするなら死んだ方がました。」と思い戦地へ出征し、いざ敵と交戦する時、「相手にも帰宅を待つ家族がいるのだな」と思い、足がすくんだこと等々…。

 終戦を迎えた時、当時の大人の方は、「未来を担うこの子たちに、二度とこんな思いをさせてはいけない。」との願いのもと必死に働き、驚くほどの短期間でこの国を立ち直らせて豊かで平和な国を築いてくださいました。そうした先人に対し深い敬意と恩義を感じるものであります。


2.弘法大師

 弘法大師は、御年31歳の時、唐に渡り、都の西安で青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果和尚(けいかかしょう)に師事し密教の師匠としての証しである伝法阿閣梨(でんぽうあじゃり)の灌頂を受けました。

 本来は、20年滞在の予定でしたが、僅か2年で全てを学び、日本に戻ります。その時、師の恵果は 「教えはすべて伝えた、早く日本に戻り天下に教えを広め、蒼生の福を増しなさい。」という言葉を委ね、間もなく亡くなりました。

「蒼生…そうせい」とは一般の人々のこと。つまり一般の人々の悩み苦しみを抜き幸せにすることこそが、師、恵果の望むことだったのです。

 大師は日本に戻ると、師の願いに忠実に、その生涯をかけて人々の幸せのために邁進され。今も高野山から人々の幸せを願っておられます。


3.恩に報いる

気がつけば私たちも先人の温かい願いの中で見守られ生かされています。今、世の中が乱れ、人の心も余裕がなくなっています。こうした時にこそ、私たちの幸せを祈ってくださった先人にならい、未来を担う人々の幸せにすこしでも寄与出来ればと思う次第です。

(令和7年秋彼岸中日法要法話)


高野山英霊殿前の紅葉

生麦山 龍泉寺

「身は華とともに落ちぬれども、心は香りとともに飛ぶ。」 弘法大師のことばです。仏さまのもとからこの世に生まれ、また仏さまのもとへと、いつか旅立って行く私たち。身体はなくなってしまっても、幸せを願う想いは、いつまでも心から心へと受け継ぐことができるのです…。生麦山龍泉寺は横浜・鶴見の高野山真言宗のお寺です。