「花とその心 ー仏さまのいのちー」

 「心を洗って香と為し、体を恭(つつし)んで華と為す。」 『性霊集 巻第八』

 四季折々の小さくも美しい花の姿が、お寺の境内を訪れる人の心を和ませています。寒さが残る白梅の咲く頃に大切な奥様を亡くされた方、春のツツジの咲く頃、お孫さんが無事に生まれたことを亡くなった御主人に御報告に見えた方。花の姿と香りとともにそうした方々のことが思い出されます。

 本堂での読経の声と呼応するような蝉しぐれの音が止むと、ようやく暑かった夏も終わり、秋の彼岸には曼珠沙華(まんじゅしゃげ…彼岸花)が、地中から芽を出し、紅鮮やかな花が寺の参道を飾ります。

 花は無心に咲き、それぞれの香りを漂わせて、季節の移り変わりとともに静かに散って行きます。その姿に接する時、私たちは無常の中に時間を超えて伝わっていく、はかなくも美しい花の心を感じることができます。

 「浄念(じょうねん)は蓮花(れんげ)に坐(ざ)し、垢心(くしん)は悪趣(あくしゅ)に沈(しず)む」 『宗秘論』

 良い人だと思っていたのが、その人の悪い噂を聞いて評価が変わってしまう。心に悩みごとがあるために、それまでおいしいと思っていたものが、おいしく感じられなくなる。心の在り方で、ものの見方、感じ方が変わってしまうことはよくあります。心はいつも大きく揺れ動いているのです。

 私たちは小さな拳を握ってこの世に生まれてきます。その拳には仏さまのいのち、「仏性」がしっかりと掴まれているのです。赤ちゃんの時には、汚れなく透明な仏さまのいのちも、成長していくに従って、様々な汚れがついていきます。また、朝には光り輝いていた仏さまのいのちも、一日のうちには陰りが差すこともあるでしょう。その時私たちは人を愛おしく思う同じ心で人を憎み、笑顔で両親の肩を叩いてあげたその手で人を傷つけ、人をいたわることばが出たその同じ口から、人を不快にすることばを発しているのです。

 朝起きてから、夜寝るまでの間、私たちは一体何度、鬼になったり仏になったりしているのでしょうか…。

 ふだん、日常の中で俗事に流されて生きている私たちも、本来は季節に応じて美しい姿を見せる花々と同じ、仏さまからお預かりした心と体を持っているのです。心を洗い、行いを整えていくことで、花が香りと姿で見る人の心を豊かにするように、私たちも周りの人々を温かく幸せにすることができるのです。

 薬壺を持った藥師如来、剣と羂索(けんさく)を持った不動明王など、仏さまはその役割に応じて姿形や表情、持ち物がことなります。しかし、その手で、ことばで、心で私たち悩めるものを導き救ってくださることに変わりはありません。

 私たちも、穏やかな笑顔、優しいことば、そして真心で、まわりの人たちに自分のできることをして差し上げるとき、こうした仏さまと同じ働きをしていることになります。またそれこそが、生きている私たちのなすべき役割と思われます。

 いのちには限りがあるからこそ、そしていつか仏さまにお返しする時がくるからこそ、そのいのちは輝き永遠に価値あるものとなるのでしょう。花の姿に学ぶことは多いものです。    合 掌

*本稿は、『高野山開創1200年記念 弘法大師聖語法話集「永久のことば」ー高野山真言宗本山布教師会編』に収録されたものです。住職は高野山真言宗の本山布教師を務めています。

生麦山 龍泉寺

「身は華とともに落ちぬれども、心は香りとともに飛ぶ。」 弘法大師のことばです。仏さまのもとからこの世に生まれ、また仏さまのもとへと、いつか旅立って行く私たち。身体はなくなってしまっても、幸せを願う想いは、いつまでも心から心へと受け継ぐことができるのです…。生麦山龍泉寺は横浜・鶴見の高野山真言宗のお寺です。